日本語の「られる」(むずいので、読まなくていいです)
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今日は、文法の授業に出た。
皆、相変わらず、質問はしない。
分かっているようで多分分からない。
正直に言って、授業は、面白くないけど、出る価値がある。
「~られる」の意味は、以下のようです。
- 受身
太郎が次郎に殴られた。
Taro dipukul Jiro.
- 自発
故郷のことが懐かしく思い出される。
Aku teringat akan kampung halaman dan merasa rindu.
「インドネシア語に翻訳不可能?」
- 可能用法
泉さんは、ブルーチーズが食べられる。
Izumi-san bisa makan keju biru?-> blue cheese
- 尊敬用法
山田先生が大阪へ出かけられた。
Pak Yamada pergi ke Osaka.
「インドネシア語には、尊敬語を表す語形態がないので、理論上、他の文脈の支持無くして、翻訳は、不可能」
これらの「~られる」形式は、「~れる」と「~られる」という異形態があるが、「~れる」と「~られる」が登場する条件に関して、「語幹」という概念を日本語の研究に適応して、たとえば:
よむ は、yom+ u と考えて、語幹は、yom となる。
この観点からすれば、「~れる」という異形態が存在せず、「~られる」しか存在しない。
yom + rareru –> yomrareru.
しかし、日本語には、「子音」が連続していはいけないというルールがあるので、[r]が脱落すると考えられている。
yom[r]areru –> yomareru
となる。
別の例で考えると
起きoki + rareru–> okirareru
この場合、連続子音が存在していないので、そのままokirareruになる。
ただ、これに関して、川村先生は、あまり、好きではないようだ。
「~られる」と「~れる」と二つあってもいいんじゃない?二つあって何が悪い?というようなことをおしゃった。
話を聞くと、だって韓国語でも、「が」に相当する「が」と「に」もあるんじゃないか。
川村先生は、とても理論に厳しい方。インドネシア語でいうと可也berhati-hati。私は、どちらかというと、川村先生と正反対だが、なぜか、この先生に師事しようとしている。
そして、一見、「~られる」型に見えるが、実は、そうではないものがある。
生まれる
しかし、
『赤ちゃんが、母に生まれる』というような文章が作れないので、「~られる』型ではない。
授業で、少し反論したが、『しかし、生まれる は 自発の意味があるのではないでしょうか?なぜ駄目ですか』と聞いたら、大体次のような答えが出た。
『まず、~られる型に分類できるように、元の動詞がないといけない。そして、その元の動詞から考えて、「自発」の意味があるかどうか』
まあまあ、私も勉強不足だな。まず、もう一度、百人一首を暗記して、古典文法に慣れなければ、川村先生の世界に入れん。
この先生のキーワードは、『バラバラで悪いのか』『統一がなくて悪いのか』
先生の学歴を読むと、東大卒だったので、『要領のいい』人だなと思う。だって、人は、普通、物事の裏にあるルールを知りたがっているのは当然じゃないか。
でも、自然科学と違って、言語学、とりわけ、古典を研究する科学は、資料は、少ない。ある意味、自然科学よりも厳しい。自然科学は、理論を構築して、直ぐに実験できるが、古典語研究は、資料しか頼れない。
まあまあ、川村先生に、夢見がちなアルビーを矯正してもらおう。
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